歴史に学び今思考することは

ペストの猛威、三十年戦争リスボンの大震災、
ナポレオン戦争アイルランドのジャガイモ飢饉、
コレラやペストや結核の蔓延、第一次世界大戦
スペイン風邪ウクライナ飢饉、第二次世界大戦チェルノブイリ原発事故、東京電力原発事故。
世界史は生命の危機であふれている。
いずれにしても甚大な危機が到来したとき、現実の進行はいつも希望を冷酷に打ち砕いてきた。
とりわけ大本宮発表にならされてきた日本では、為政者たちか配信する安易な希望論や道徳論や精神論(撤退ではなく転進と表現するようなごまかしなど)が、人を酔わせて判断能力を鈍らせる安酒にすぎないことは、歴史的には常識である。
その程度の希望なら抱かない方が安全とさえ言える。

想像力と言葉しか迺具を持たない文系研究者は、新型コロナウイルスのワクチンも製造できないし、治療薬も開発できない。
そんな職種の人間にできることは限られている。
しかし小さくはない。
たとえば、歴史研究者は、発見した史料を自分や出版社や国家にとって都合のよい解釈や大きな希望の物語に落とし込む心的傾向を捨てる能力を持っている。
そうして、虚心坦懐に史料を読む技術を徹底的に叩き込まれてきた。
その訓練は、過去に起こった類似の現象を参考にして、人間がすがりたくなる希望を冷徹に選別することを可能にするだろう。
科学万能主義とも道徳主義とも無縁だ。
幸いにも私は環境史という人間と自然(とくに微生物)の関連を歴史的に考える分野にも足を突っ込んでいる。
こうした作業で、現在の状況を生きる方針を探る、せめて手がかりくらいを得られたらと願う。

人びとは、危機が迫ると最後の希望をリーダーとリーダーの「鶴の一声」にすがろうとする。
自分の思考を放棄して、知事なり、首相なり、リーダーに委任しようとする。
たしかに、もしも私たちが所属する組織のリーダーが、とくに国家のリーダーがこれまで構成員に情報を隠すことなく提示してきたならば、
そのデータに基づいて構成員自身が行動を選ぶこともできよう。
異論に対して寛容なりーダーであれば、より創造的な解決策を提案することもできるだろう。
データを改竄したり部下に改竄を指示したりせず、きちんと後世に残す文書を尊重し、歴史を重視する組織であれば、ひよっとして死ななくてもよかったはずの命を救えるかもしれない。
自分の過ちを部下に押し付けて逃げ去るようなそんなリーダーが中枢にいない国であれば、ウイルスとの戦いの最前線に立っている人たち、たとえば看護師や介護士や保育士や接客業の不安を最大限除去することもできよう。

危機の状況にも臨機応変に記者の質問に対応し、少致意見を弾圧しないリーダーを私たちが選んでいれば、納得し て人びとは行動を起こせる。
「人類の叡智」を磨くために、「有事」に全く役に立たない貿い物をアメリカから強制されるのではなく、研究教育予算に税金を費やすことを使命と考えてき た政府であれば、
パンデミックに対して少なくともマイナスにはならない科学的政策を提言できるだろう。
ところが、残念なから日本政府は、あるいはそれに類する海外の政府は、これまでの私たちが 述べてきた無数の批判に耳を閉ざしたまま、
上記の条件を満たす努力をすべて怠ってきた。

そんな政府に希望を抱くことで救われる可能性(『週刊文春』の3月26日号に掲載された 「最後は下部のしっぽを切られる」「なんて世の中だ」という自死寸前の赤木俊夫さんの震える手で書かれた文字群)は、
現在の国会での政府中枢の驚くべき緩慢な言葉によって、粉々に打ち砕かれている。
この政権がまだ45.5パーセントの支持率を得ているという驚異的な事実自体がさらに事態を悪くしている(共同通信社世論調査。2020年3月28日配信)
その上、「緊急事態宣言」を出し、基本的人権を制限する権能を、よりにもよって国会はこの内閣に与えてしまった。
為政者が、国民の生命の保護という目的を超えて、自分の都合のよいようにこの手の宣言を利用した事例は世界史にあふれている。
どれほどの愚鈍さを身につけれ ば、この政府のもとで危機を迎えた事実を、楽観的に受け止めることができるだろうか。

日本は、各国と同様に、歴史の女神クリオによって試されている。
果たして日本はパンデミツク後も生き残るに値する国家なのかどうかを。
クリオが審判を下す材料は何だろうか。
危機の時期に生まれる学術や芸術も指標の一つであり、学術や芸術の飛躍はおそらく各国で見られるだろうが、それは究極的には重要な指標ではない。
死者数の少なさも、最終的な判断の材料からは外れる。
試されるのは、すでに述べてきたように、いかに、人間価値の値切りと切捨てに抗うかである。いかに、感情に曇らされて、フラストレーションを「魔女」狩りや「弱いもの」への攻撃で晴らすような野蛮に打ち勝つか、である。

武漢で封鎖の日々を日記に綴って公開した作家、方方は、「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を哀遊し、世界中のものを貿いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。
基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」(日本語訳は日中福祉プランニングの王青)と喝破した。

この危機の時代だからこそ、危機の皺寄せがくる人びとのためにどれほどの対策を練ることができるか、という方方の試金石にはさらなる補足があってもよいだろう。
危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。
危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミツク後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか。
これがクリオの判断材料にほかならない。
「しっぽ」の切り捨てと責任の押し付けでウイルスを「制圧」したと奢る国家は、パンデミツク後の世界では、もはや恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう。

藤原辰史:パンデミックを生きる指針 より抜粋