日本文化の中の人々

日本文化とはなにか
日本文学史を振り返ってみると、二つのことが出てくる。
一つは、社会的な面でいう集団主義
そのプロトタイプは水田耕作をする村の共同体。
いろいろな社会生活の面で個人的ではなく、集団的な傾向がみられる。
思想的、あるいは心理的な面でいえばどういう価値も超越的ではない。
あるいは、超越的などのような価値にもコミットしない。

これがキリスト教文化圏の場合では、集団性はあるが
同時にその村の上にある権威である一神教の神にコミットする。
私の属している村のみんなが反対しても、私の言っていることが正しい、と思うことが可能になる。
聖書の言っていることを私は述べているのだとなる。
神は私を除く全会一致の村人よりももっと高いところにある。
それが超越的価値へのコミットメントにつながる。
日本文化とは何か、集団主義プラス超越的価値の不在、これが答えになる。

加藤周一「最終講義」

NHKを退職した相澤冬樹記者

『NHKの記者は日本一厳しい環境で仕事をしている』ということです。
これは上からの圧力とかそういうものではなく、
ここにいる皆さんはわかっていると思うけど、
日本一厳しい要求水準のもとで
仕事をしているということです。

それはそうだろう、
湯水のごとき取材費を使い、
政権に万全の仕事をしているのですから。
当然政権からの要求も厳しいものになる。
市民からの厳しい追及ではなく、
強いものからの欲張った要求になる。

「バカ」の効用

知性がないと自覚しない、
輩が、
そのくぼ地を隠すために、
自身のか弱い知性が、
吐かせることば、それが「バカ」

こっちだったか

知性がないと自覚しない、
輩が、
そのくぼ地を隠すために、
自身のか弱い知性が、
吐かせることば、それが「ボケ」

退化する脳3 語彙の貧困

「このデモに参加してる奴の大半は実質的に納税してる額より給付されてる額の方が多い」
(同じ人のツイート)「人にランクとかつけられるか!ぼけ。」

脳はこの例のように退化する。
語彙が貧困になる。
「今日は天気いいんじゃ、ぼけ」
言葉の末尾に、「ボケ」くらいしか付けられなくなる。

退化する脳2:自虐する

:「このデモに参加してる奴の大半は実質的に納税してる額より給付されてる額の方が多い」

そもそも税って、国から支給されるものではない。
われわれ市民が国に一旦預けているお金だ。
正義に基づいて公平に、
国にその差配を依頼しているだけ。
また、公務員の給与はそもそも税からの支給、
すなわち市民からの支給、ゆえに公僕と呼ばれる。

「このデモに参加してる奴の大半は実質的に納税してる額より給付されてる額の方が多い」

ちなみに、監獄は食事からトイレまで、衣料から医療まで、
そして刑務官も、100%税金です。
まして、獄中では税金を支払ってません。

退化する脳

「このデモに参加してる奴の大半は実質的に納税してる額より給付されてる額の方が多い」

この部分だけをみても、あっ、こりゃあかん。
ホリエモン、もうちょっと考えをまとめてから発言してや・・
と思うで。

香港一国二体制

「逃亡犯条例」改正案の審議を中断「勝利」だろう。
勝因は激しく抵抗したからか、
国際連帯が有力だったのか、
なぜ勝利したのかを分析しないと。
多くの市民に知性ある判断を求めた。
そして市民の心に共鳴を植えたから。