人間の攻撃性

いま、コロナウィルスの感染が広がる中で、
行政が明確な休業指令を出さず、民間の「自粛」の委ねてしまったせいで、
「自粛に従わないものには市民が処罰を下してもよい」という口実で暴力行使の正当化をする人たちが出て来た。
「自粛」というあいまいな行政指導は市民たちの相互監視を督励する。
そして、それは単なる監視にとどまらず、「自粛しない市民を攻撃しても処罰されない」という心証をかたちづくった。
 彼らはちゃんと法律が機能し、常識が有効であり、「世間の目」が光っているときなら、
そんなことはしない人たちである。
でも、少しでもその規制が緩むと、自分の中の攻撃性を抑制することができなくなる。

 彼らは「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・自分の言動が処罰されない保証があると知れると、 過剰に暴力的になる人間」である。
そして、たぶん彼らは「あらゆる人間はそうだ」と思っている。 でも、それは違う。
世の中には、「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・処罰されるリスクがない時」でも、
「お天道様」が見ているという自制を失わず、常識的に、ジェントルに、節度をもってふるまう人がいるからである。
この人たちは「あらゆる人間が自分と同じだ」とはたぶん思っていない。 でも、自分はそういう人間であり続けようと思っている。

 この二種類の人たちはいずれも少数派である。
おそらくそれぞれ集団の10%内外だと思う(この辺の数字は私の経験知であるので、厳密ではない)。
残りの80%はこのどちらが優勢であるかによってふるまい方を変える。
「どんなことがあっても穏やかに、市民的にふるまう人」はいつも同じようにふるまう。 平時でも非常時でも変わらない。
一方、「処罰するリスクがないときに過剰に暴力的になる人」は「処罰のリスク」という可変的な条件に従って、ふるまい方をがらりと変える。
まったく違う人間に見えるほど変える。
人が変わったように変わる。
それが可視化されるかどうかは「処罰のリスク」というごく散文的な条件によるのである。

「外出自粛」は行政が明確な基準も、それに対するペナルティも示さなかったことによって、
この人たちのうちに「今なら人を攻撃しても処罰されない」という確信を醸成した。
 いま、あちこちで罵声が聞こえる。
スーパーの店員にどなりつけたり、
ATMの列でどなりつけたりしている人たちは、
全員が「自分は社会的な正義を執行している」と思ってそうしているのである。
今なら、どれほど暴力的になっても、それを正当化するロジックがあると思ってそうしているのである。
だから、止められない。 彼らを止める方法は一つしかない。
法律が機能し、常識が機能し、「世間の目」が機能するようにしておくことである。

ゲシュタポはきわめて効率的に反政府的な人々を逮捕していったが、
それは彼らの捜査能力が高かったからではない。
逮捕者のほとんどは隣人の密告によるものだったからである。
 市民を相互監視させることによって統治コストは劇的に削減される。
それは事実である。
けれども、その代償として、「大義名分をかかげて隣人を攻撃し、屈辱感を与える」ことに熱中する人々の群れを解き放ってしまう。
それがどれほど危険なことなのかについて、人々はあまりに警戒心がないと思う。

隣組と攻撃性」内田樹 より