雑誌世界から

雑誌世界の8月号が売り切れとなっているそうだ。

そこで版元である岩波書店は増刷を決め、7月末には再び書店に並ぶようだ。

雑誌世界8月号の特集は「安倍政治の決算」というタイトルになっている。

 

その特集巻頭を飾るのが、石川健治教授の一文である。

「始原について」とタイトルされたその論文はさすがと思わせるユーモアをまじえた文章となっている。

文字色加工blog主

 

2012年12月26日に発足した、第二次安倍政権の7年8か月において最も危険な企ては、いわゆる安保法制でも憲法9条加憲論でもなかった。

2013年の春先、政権の始原において浮上した、憲法96条の改正論である。

 第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 

額面上は(96条以外の)すべての条文を対象とした「憲法改正権」を創設するために置かれた96条は日本国憲法103条の中でも最上位の規範であり、日本の憲法秩序の根幹をなしてきた。

2013年の春、そうした立憲国家の根幹を、内閣総理大臣をはじめ与党の国会議員が総出で打ち倒そうという、異様な光景が展開されていた。

 

法の改正ルールにはさまざまなヴァリエーションがある。「改正を禁ずる」というルールも、実は改正ルールの一種である。

 

もちろん、このルールの下でも、法の「改廃」には至らない「補充」的変更は可能である。

下位の方を活用して法内容を補充すればよい。しかしそれが上位の法の同一性を損なうこと(「改廃」)は、法的には許されない

そのため、法の変更が必要になった場合、その都度「革命」ーー「法に反する事実」による法の破砕ーーを企てざるを得なくなる。

 

改正禁止のルールは、かえって革命的変更を誘発する。

法学的考察を徹底するなら、それが「上からの革命」であれ「下からの革命」であれ、事実による法の破砕により、法秩序の連続性が切断されたことに変わりがないから、すべて一様に「革命」と評価されることになる。

 

もちろん、96条についても「補充」的変更は可能であり、現に「日本国憲法の改正手続に関する法律」のなかには憲法補充的規定が含まれている

けれども、発議要件を特別多数決から単純多数決に引き下げる変更が、96条の「補充」で済むはずはなかった。

 

参照 日本国憲法の改正手続に関する法律第六十八条の五 憲法改正原案について 国会において最後の可決があつた場合には、その可決をもつて、国会が日本国憲法第九十六条第一項に定める日本国憲法の改正(以下「憲法改正」という。)の発議をし、国民に 提案したものとする。この場合において、両議院の議長は、憲法改正の発議をした旨及び発議に係る憲法改正案を官報に公示する。

 

特別多数決も多数決には違いないが、単純多数決に比べて、熟議の制度的条件を提供して、民主的決定の質を高めることができる。

その分、時間的なコストは覚悟せざるを得ないが、同調や排除の圧力はかからない利点がある。

日本国憲法は、次の五つの局面で特別多数決を採用した。

衆参それぞれの議院で行われる、議員の資格を争う裁判で、議席を失わせる結論を出す場合(55条)

会議を非公開(秘密会)にする場合(57条1項)

院内の秩序を乱した議員に対して、除名の議決をする場合(58条2項)

衆参両院で結論が食い違った法律案を、衆議院で再議決して国会全体の議決とする場合(59条2項)

そして、憲法改正の発議をする場合(96条)

 これらのうち、前の四つについて「出席議員」の三分の二以上で議決できると定めたのに対して、憲法改正についてだけは、さらにハードルがあがって、「総議員」の三分の二以上が要求されている。

五つの局面のうち、憲法改正の発議が一番重たい問題であるからにほかならない。

しかも、発議自体は「国会」であって、衆議院だけでなく参議院の賛成が要求されているのも、とりわけ熟議が必要になるからである。

 

ところが、2013年の改憲論は、ほかの四つの局面を放置したまま、憲法改正についてだけは、通常の立法なみの単純多数決に格下げしようと主張したのである。

熟議の府としての矜持を喪った議会人たちの選択や、辻褄の合わない選択に誰も異を唱えない反知性主義の跋扈に、戦慄が走った。

わたくしの脳裡には、かって大教室の前列で共に熱心にメモをとりながら、樋口陽一教授の憲法の講義を聴いていた、幾人かの国会議員の顔が浮かび「自分に恥ずかしくないのか」と、彼らに問いかけてみたくなった。

わたくしにとって、事実上はじめての社会的発言になった、乾坤一擲の新聞論説を執筆した動機は、実はそれである。

朝日新聞2013年5月3日朝刊13面)

不敏なわたくしは、自民党の政治家が朝日を読まないことを、知らなかった。

皮肉なことに小論は一般読者の支持を得て朝日新聞デジタルで通常の5倍のページビューを記録した。

これが、わが生涯で最も多くの人々に読まれた文章になったかと思うと、不思議の感を禁じ得ない。

売り切れになる書店が多い中、ふち地下街をあるいているとその書店には世界が山積みになっていた。

レジで「他では売り切れ続出らしいですね」といったら「そうSNSで騒がれています」と笑顔で返された。

またSNSではこの雑誌世界のアカウントが一時凍結されたことも話題になっている。

メディアの劣化が叫ばれてはいるが、ツイッターもイーロンマスクの買収以来不適合が垣間見られる。

右往左往する世の中になってきた。