一字で中身は異なる

山尾志桜里論座」より
世界人権宣言70周年における習主席のメッセージを引用しよう。
「中国国民は各国の人々と共に
平和・発展・公平・正義・民主・自由という人類共通の価値観を堅持し、
人の尊厳と権利を守り
より公正で合理的かつ包摂的な世界人権ガバナンスの形成を後押し、
人類運命共同体を共に構築し、
世界の素晴らしい未来を切り開くことを望んでいる」

価値観の順序には各国なりの温度差があるだろう。
(日本だったらこの六つの価値をどの順番で並べるだろうか。
おそらく中国とは順序が変わるはずだ)
「個人の尊厳」ではなく「人の尊厳」としているのも、
中国なりの哲学が看てとれる。
(たとえば欧州は「個人の尊厳」より「人間の尊厳」という
概念を上位に置く場合がある)
各国家それぞれの歴史的・文化的・政治的な背景と、
それに基づく価値観のグラデーションは尊重されて当たり前だ。

自民党改憲草案十三条を「公益及び公の秩序に反しない限り、人として尊重される」と書き換えた。

日本国憲法十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

以下引用 自民党改憲草案を読む/ より

自民党改憲案で、問題視されているのは、
十三条の「すべて国民は、人として尊重される。」というものです。
これは現行憲法における
「すべて国民は、個人として尊重される。」
とは、たった一字の違いですが、その意味するところは全く違ってきます。
人一般として権利を持つのではありません。
この条文で重要なのは、「個人としての尊重」が、
「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」と密接に結びついているという認識に立っているからなのです。

 

現行の憲法十三条における人権は、「幸福追求権」と呼ばれていますが、
それは個人によって幸福の意味が異なることを前提としていることを意味しています。
誰か権力者が「人」としての幸福とはこれだと外在的に規定しないし、
できないからこそ「個人」として尊重される必要があるのです。
しかも、現行憲法の「最大の尊重を必要とする」が、
改憲案では「国民の権利については、最大限に尊重されなければならない」と改められています。
ここも「最大」と「最大限」との一字違いなのですが、
憲法では文理の解釈で大きく異なりかねません。

 

「最大限に尊重される」というのは「最大限にやりました」と言えば良く、
自由に限度を設定することも可能です。
他方で、「最大の尊重」というのは、本当に最大に尊重したことを論証する必要があります。
もちろん、「最大」の範囲も変動するでしょうが、
なぜ、こうした改正がおこなわれたかについても留意しておきたいとおもいます。